コンプレックス
母が「私ってかわいそう」とすっかり悲劇のヒロイン気分で電話口の向こうでオヨヨと泣き崩れた翌日、私はまた母に電話する。それが日課だから。
母の声はすっきりとしていた。この日は比較的まともだったようで、「1分前の話を延々とループする」という特有の症状も出ていなかった。家の片づけをしていると、母が好きなウルフルズのベスト盤が棚の奥から出てきたらしい。たしか私が昔プレゼントしたものだ。
母曰く、それを聴いているとなんだか頭がすっきりしてきたらしい。それと、キリンの「晴れ茶」がとても美味しかったという話をした。私はそれを飲んだ事がないのだけれど、たしかハーブ系の飲料だったはず。「匂い」というのは記憶につながっているという話を聞いたことがあるので、それと合わせて「音楽」が脳の刺激に一役買ってくれたのかもしれない。
久しぶりにまともな会話ができて私も少しほっとしかけていると、母が唐突に「いい女!」と言い出した。は?と思っていると、どうやら母が言っているのはウルフルズの曲のタイトルらしい。
「聴いて!」
すでに母の話には主語も述語も無い。
「歌詞がええんよ!日記にも書いたんよ!今から読み上げるから聴いてや!」
と、母が浜村淳よろしく口頭で歌詞を読みあげてくれた。そして母がとりわけ「グッときた」パンチラインというのが以下になる。
お金より、見た目より、車より、心意気
やっと見つけたよ お前いい女
俺を困らせるいい女
ウルフルズの曲のこの部分だけを抜粋して「ボブ・ディランみたいにポエティックだね」とは、おそらく誰も言わないだろう。私は母が「グッときた」理由を推測する。たぶん母は自分の事を「いい女」だと賞賛されている気になっているのだと思う。昔から母はそういうタイプの女だった。ちやほやされないと途端にぶんむくれるような、私が男だったら(いや、レズビアンだったとしても)絶対につきあいたくないタイプ
母がループする話題の一つに「父の親友の奥さん」が出てくる。母が言うには、父はその奥さんを信頼していて「相談ごとがあれば、お前もあの奥さんを頼るといい」といつもそう勧めるのだという。
そして母はそれについて何度も何度も「私もあの奥さんを信頼している。だけど車じゃないと行けないような距離感でお互い暮らしているし、何かあればつい近所の親しい人を頼るのが自然だろう。」と主張し続けるのだ。
母が昔からその奥さんにコンプレックスを抱いている事はみんな知っていた。母にしてみればそのコンプレックス自体が恥ずかしい「お荷物」なのではないかと思うのだけれど、調子が悪くなると決まってこの話が出てくる。どうせ認知に障害が出るのなら、手離したい記憶から忘れてしまえばよいのに・・・・
その翌日に、母は近所の仲良しSさんと共に日帰りの小旅行に出かけた。Sさんは元々大らかな性格の人なので、母が少しばかりとち狂った話をしても気にしないでいてくれる。旅行するのは刺激にもなるし、有難い事だと思った。
母に日課の電話をすると、出先から「いかに今楽しく過ごしているか」を延々と聞かされた。声は明るかったけれど、この日はループ症状が強く出ていた。
そして「昨日、新聞の契約に失敗したんよ。意味わかる?」と尋ねてくる。この言葉から意味がわかる人がいればそれはエスパーでしょうよ・・・と呆れながらも丁寧に「わからないよ」と答えてやると、どうも母はいつもとっている新聞に合わせて別冊も契約しようとしたらしい。それが「別冊の方はネットでしか見られへんかってんよ~、お父さんに怒られるわ~」と言うのだ。(実家はインターネットを導入していない)
それなら理由を言えば解約してくれるのでは?と言うと、じゃ帰りに新聞社に寄った方がいいかな?と聞いてくる。そうしたかったらすれば、と言うと「今日は帰りが遅なるから多分もう閉まってるわ」だと。
この「判断力」が最近無くなっていて、すぐに私に聞いてくる。そのくせ新聞の契約は勝手にしてしまうのだから、やっぱり認知症なんだろう。
しかしネットでしか見られない別冊の契約を「ハガキで申し込む」のは変じゃないか?とその新聞社のHPで確認してみると、ちゃんと「新聞と同じように紙で届きます」と記載されている。母は下記の方にある「ネットでも読むことができます」だけを見て勘違いしたらしい。
母と電話を切ってすぐだったので、メールでその旨を伝えておいた。解約しないでも大丈夫、ちゃんと紙で読めるよと。母からのリアクションは無く、また翌日に「私のメール読んでくれた?」と電話で確認すると「ああ、読んだよ、それが何。あんたの冗談やったんか?」
この「傍若無人」も認知症の症状にあてはまるのだけれど、残念ながら母は元来そういう人間なので、それが病変なのかどうかの判断がつきにくい。
母はその日、早朝に家のすぐ裏に救急車が止まったのでそれを見に行くと、同じように野次馬に紛れていた近所の美容院の人を見つけたので「ちょうどええわ」とその場で予約を入れ(多分、美容院の人はびっくりしただろう・・・・)そのまま屋上に置いてある植物の植え替えを敢行したらしい。おまけに「自転車を買ったんよ」と言う。
母は乳がんの手術をした際に、転移がみられた脇のリンパ節も除去してしまった為に腕が上がりにくくなっており、その前から「自転車で転倒したりして患部を刺激すると良くない」と医者にも言われていたので、かれこれ5年ほど自転車には乗っていなかった。そして古い自転車はとっくに捨ててしまっていた。
それなのに、また自転車に乗ると言う。母が言うには腕はずいぶん動かせるようになってきたし、日常に支障は感じられなくなってきたと。あとこないだ祖母が亡くなった時の遺産分与が10万円ほど母にも分配されたらしく、それで最近金遣いが荒い(といっても、今のところ常識の範囲内)のかと納得。今の母に「ダメ!」は禁物なので、したいようにさせてやるしかない。
母が猛烈に活動的なのは「疲れた」と感知する脳の部分がおかしくなっているのだろうけれど、残り時間が少なくなってきたことを本人なりに察知しているのかもしれない。